Masuk箱の中から湿った紙の匂いがした。
紬は一番上にあった卒業展の図録から取り出した。くしゃくしゃになったポスターと、途中まで塗った彩色用の紙がその下に挟まっていた。広げる場所が足りず、直人の資料箱を少し押して床に座った。
探しているスケッチブックの表紙は黄色だった。引っ越しのときに角が破れてテープを貼った記憶があるが、目の前にあるものはどれも似たような灰色に色あせていた。紬は背表紙を1冊ずつ触り、内側の名前を確認した。
『閉じる時間』。
タイトルを見つけたとき、外ではごみ収集車がバックする音がしていた。紬は膝の上にスケッチブックを載せた。最初のページに書いた自分の名前がよく見えず、机のライトを床のほうへ向けた。
佐伯紬。短編、講評会用。
その下には消したタイトルがもう1つあった。最初は『返す鍵』と書いたが、話が早くわかりすぎる気がして変えたのだった。紬は紙の端を押さえ、次のページを開いた。
人のいないクリーニング店の前に立つ女。
閉まったガラス戸の内側にかかったエプロン。
女の体に隠れて半分だけ見える椅子。
彩香の紹介資料を隣に表示した。昔の絵の女はスニーカーを履き、新作の女はパンプスを履いていた。店の看板も違う。紬が鉛筆で大まかに引いた電線の代わりに、華やかな建物の装飾が入っていた。
けれど、場面が切り替わる順番は同じだった。
紬は最初のコマを隠して次のコマを読んでみた。女の後ろに見える椅子が何の椅子で、その持ち主がどこへ行ったのか、すぐにはわからない構図だった。クリーニング店のガラス戸に貼られた紙で、店内はさらに見えにくくなり、女が身を動かしてからようやく空いた場所が見える。
当時の講評では、店の中を先に見せたほうがいいと言われた。読者がどこかわからないと、ついてこられないからと。紬は1枚描き直して持っていった後、最初の順番に戻した。女は事情を知っているのに、読者だけが知らない時間がもう少し必要だった。
紹介資料の中の女も、同じ順番で空の椅子を見せた。
どこまでなら偶然と言えるのか数えかけて、やめた。クリーニング店、エプロン、空の椅子。1つずつ取り出せば珍しい題材ではない。だが、ガラス戸に貼られた案内のせいで椅子が半分隠れる位置まで同じだった。
スケッチブックの後ろには、同じ椅子を描いた練習画が何枚も貼られていた。正面から見た椅子、ガラス戸に映った椅子、肘掛けだけが見える椅子。最初は持ち主が去ったというセリフを先に入れ、後から消した。女が身をよけてから読者にもその空席が見えるよう、説明を後ろへ回したのだった。
紬はそのページを別に広げた。視点を変えるたびに女の立つ位置も少しずつ違っている。最後の構図を選ぶまでにたどった過程が、数枚の紙に残っていた。
紬はスケッチブックの端に貼られた小さな紙を、はがさずに広げた。エプロンの横から手が出る場面の修正案だった。この部分を変える前に誰に見せたかを思い出した。
彩香が紙を持っていったのは、講評会が終わった後だった。
「線が粗いから、かえって色をのせやすそう」
あのとき彩香は、数本の線で雰囲気が決まる絵が好きだと言った。紬がまだ完成もしていないと言うと、自分はこんなふうに粗いまま残すほうが難しいと笑った。褒められた紬は、後ろの落書きまで見せた。
「これで色の練習をしてみてもいい? 最近やってたのと違うことをしてみたくて」
「練習用なら大丈夫です」
「スキャンしたもの、ある?」
そのときは先にコピーを渡した。後からファイルを送ってほしいと言われ、灰色の線がよく見えるようにスキャンし直した。あるページは端が傾いていたので、彩香に平らにして送ってほしいと言われたことも覚えている。
返してもらうものはないと思っていた。元のスケッチブックは自分の手元にあったし、先輩が色をのせるからといって、話が別の人のものになるわけではなかった。
紬はスマートフォンで彩香とのトーク画面を開いた。最近のやり取りは季節の挨拶と直人の作品の話だけだった。大学時代の連絡は、今使っているトーク画面より昔のことだ。どれだけ上へさかのぼっても、あの日の頼みは出てこない。
火曜日、紬は机の引き出しに入っていた外付けドライブを1つずつつないだ。講評会のときに使ったファイルを探したが、先に見えるのは古いパソコンから移した日付だった。画面に記された数字が、いつ描いた絵なのかを代わりに説明してくれるわけではない。
紬はファイル名を変えなかった。最初に保存された場所にそのまま置き、確認用のコピーだけを移した。紙の原本と渡したスキャン、彩香の紹介資料を1つのフォルダーに混ぜようとして、それぞれ分けた。
記憶違いがあるなら、まず自分で知らなければならなかった。
水曜日の午前、紬は袋に入れておいた本2冊を持って家を出た。母は近所の人たちと昼食の約束があり、家を空けていた。ドアの前に本を置いたと知らせると、娘婿にありがとうと伝えてほしいと返事が来た。
紬は返信欄を開き、画面を消した。本は届けたのだから、それ以上知らせることはなかった。バッグの中にはサイン入りの本の代わりに、黄色いスケッチブックが残っていた。
近くのコピー店で原稿をコピーした。背表紙を押さえようとする店員に、無理なく開く範囲でコピーしてほしいと頼んだ。古い接着部分が開きかけていた。
「真ん中が少し暗く出ますけど」
「大丈夫です。無理に開かないでください」
店員がコピー機を調整する間、紬は壁に貼られた印刷見本を見た。小さな展示会の案内はがきや公演のポスターが混ざっている。自分の名前が入った展示ポスターもあれくらいの大きさだった気がするが、当時何枚残しておいたのかは思い出せなかった。
コピーを受け取った紬は、原本と並べた。鉛筆の薄いところは線が途切れ、消しゴムを使った場所は濃くなっていた。新しいコピーだけを見れば、最初からそんな線を描いたと思われるかもしれない。
「昔の原稿ですか?」
店員が尋ねた。
「はい。学校に通っていた頃に描いたものです」
「長く持っていらしたんですね」
紬は原本をバッグの奥に入れた。ファイルでしか残していないと思っていた絵だった。引っ越しのたびに捨てるものを選びながらも、このスケッチブックはいつも新しい箱へ移していた。
コピー店を出て横断歩道の前に立っていると、彩香から連絡が来た。
[紬、直人から話を聞いたよね? 資料の整理を少しお願いしようと思ったんだけど、とりあえずこっちで探してる。あなたも忙しいのに、余計な手間をかけちゃったみたいね]
信号が変わってからも、紬は少し立ち止まっていた。後ろにいた人が横をよけて通ると、バッグを引き寄せて肩にかけた。道を渡り、建物の壁際で返事を書いた。
[送っていただいた紹介資料を見ました。試し読みの場面について、お聞きしたいことがあります]
すぐに既読がついた。返事は少し遅れて届いた。
[どの場面?]
[クリーニング店の前で女の人が向きを変えるところです。昔、私のネームをお渡ししたのを覚えていますか?]
送信すると、スケッチブックを持って立つ自分の影が足元に長く伸びているのが見えた。電話が来ると思ったが、画面には短い返事が表示された。
[あのとき、みんなで見たもののこと? ずいぶん昔だから。金曜日に少し会おう]
紬は時間を尋ねた。彩香は仕事場の階下にあるカフェの住所を送り、金曜日の午前11時でいいかと聞いた。大丈夫だと返事をしてから、住所をカレンダーに移した。
家に戻ると、彩香の復帰作を検索した。紹介資料に入っていた場面は、公開されている宣伝ページにも掲載されていた。一部は下が切れていたが、人物が店の前を通って向きを変えるまでの流れは見えた。
公開日が表示された画面を保存した。数日後にページが変われば、自分がどんな絵を見て連絡したのか説明しにくくなりそうだった。ファイルを保存して初めて、手が少し落ち着いた。
直人は夕方帰ってきて、本を届けたか尋ねた。紬は母のところに置いてきたと答え、バッグからコピーした紙を1枚取り出した。
「これ、覚えてる?」
直人は冷蔵庫のドアを開けたまま、絵をちらりと見た。
「大学の頃のだね」
「どんな話だったかも?」
「クリーニング店じゃなかったっけ。鍵が出てくるやつ」
紬は紙をもう少し広げて見せた。それくらいは覚えている人がいたと思うと、言おうとしていた言葉がすんなり出た。
「彩香さんの新作に、この場面があるの」
直人は水を飲んで、カップを置いた。
「そうなの?」
「順番と構図が同じなの。私が送ったものと」
「あのとき、2人で一緒に作業してなかった?」
「私のネームで色の練習をしてみたいって、持っていったの」
「そういう話なんだろうね。俺も正確には覚えてないよ」
紬は彩香の試し読みを表示しようと、スマートフォンを取り出した。画面がつく前に、直人は今日は長く電話をして頭が痛いと言った。シャワーを浴びてから見ると言い残し、浴室へ行った。
水音が聞こえる間、紬は食卓に2つの絵を並べた。彼が出てきたらどこから見せるか、順番を考えてみた。店の種類が同じという話から始めれば、ありふれた場面だと言われそうだった。椅子の隠れた位置から示すほうがよかった。
シャワーを終えた直人は仕事部屋へ入った。ドアが開いていたので紬は紙を持って行ったが、彼はすでにヘッドセットをつけて通話していた。少し待ってという身振りにうなずき、それから紙を置いて自分の部屋へ戻った。
待つ間にできることは残っていた。
紬は新作の光と色が違うという事実からメモした。彩香が描いた看板と背景の装飾にも別々に印をつけた。そこまですべて自分のものだと主張したいわけではなかった。似た感じがするという話と、実際に移された場面を分けなければならない。
原本では、ドアの前の女が左手で鍵を握っていた。手のひらを隠すため手の甲だけが見えるように描いたが、彩香の絵ではその手に小さなバッグがかかっていた。鍵の代わりにバッグを持たせたため、手首から下の線がよりよく見えた。
紬は椅子を引いて座った。スケッチブックの隅に貼った修正案を慎重に持ち上げる。その下には消さずに残しておいた最初の絵があった。
手を描いた日のことを思い出した。指を曲げる位置を何度も変えるうちに、横へ出した線を1本残してしまった。講評会の後、直人に見せたとき、手がおかしいと言われて初めて気づいた。
絵の上に薄い紙をかぶせて直したが、彩香には修正前に作ったスキャンを送っていた。
紬は試し読みの手を拡大した。
バッグの持ち手を握る指の横に、短い線がもう1本あった。着色の影かもしれないと明るさを上げてみる。持ち手の外に出た小さな爪が、線の先についていた。
原本を覆う修正用の紙を横へめくった。
絵の中の女の左手には、指が6本あった。
彩香の絵にも、まったく同じように。
紬が目を開けると、廊下の先に夫の靴が見えた。昨夜は帰ってくる音を聞かなかった。ドアを開けたままの小さな部屋で体を起こすと、リビングにいた直人がシャツの袖を引きながら尋ねた。「昨日、電話してたね」「うん」紬はベッドの縁に腰掛け、床に足を下ろした。直人が部屋の入口に近づくと、膝に置いていた手を開いた。「昨日、病院に電話したの。食事もあまり取れないし、体が……」「病院は何て?」「様子を見て、また連絡するようにって。でも、一人だと……」直人のスマートフォンが鳴った。彼は画面に目を落とした。「ちょっと待って。もう車が来た」シャツのボタンを留めかけの手で電話に出て、スマートフォンを肩と耳の間に挟んだ。「はい、今下ります。5分で。資料は持っています」紬はスリッパを履いた。電話が終わるまで待っていたが、直人は折り畳んだイベントの資料を先に鞄へしまった。7月9日、水曜日。用紙の一番上には、今日の日付が大きく記されていた。「授賞式は夜じゃないの?」「昼から撮影と対談の準備もあるんだ。今日、終わったら連絡する。打ち上げもあるから」「遅くなるって言ってたね」直人は鞄を持ち上げながら、妻のコップを脇へ押しやった。「ちゃんと食べておけよ。昨日頼んだもの、残ってるだろ」「さっきの話、帰ってきたら聞いてくれる?」「あ
直人は引き出しを開け、ネクタイを探していた。必要な色を言わず、あのとき締めたものとしか言わないので、紬にはどれを指しているかわからなかった。リビングから戻った彼がシャツをベッドに広げると、袖口が彼女のバッグに引っかかった。「検査に行くときのバッグ、別のところに置けない?」紬はバッグを椅子の横へ移した。中の書類は取り出さなかった。前日に診察を受けて帰宅し、入れておいたままだった。7月8日の朝だった。直人は翌日の授賞式の動線を確認しながら、今日もリハーサルと関係者との約束があると言った。紬が食卓に置いた水の入ったコップを持つと、彼は遅れて彼女のほうを見た。「明日は行けそう?」「行けないと思う」「まだそんなに具合が悪いの?」「うん」直人はそこでようやく、しばらく彼女を見た。紬はカップを食卓に置いて待った。どこがどんなふうに悪いのか尋ねられたら、前日に聞いた話から伝えればいいと思った。「じゃあ家で休んで。イベントが長引いたら座っているのもつらいだろうし」彼は出席者を確認する画面に戻った。家族席に名前を書く欄が見えて、消えた。紬は誰に連絡しているのか尋ねなかった。自分が行けない席に別の人を座らせることまで確かめたくなかった。「夕食は?」「今日は外で食べる。明日も早く帰るのは難しいと思う」紬はうなずいた。夫はまたネクタイについて尋ねた。彼女が知っているのは、引き出しのどの段にネクタイが入っているかまでだった。「一番下の段にあるよ。そこで探して」直人は引き出しを強く閉め、また開けた。しばらくして見つかったとも言わず、スマートフ
青い印のついた原稿を数えながら、紬は17番目で手を止めた。前に数えた束をもう一度数えていた。紙をすべて床に広げれば一目で見えるだろうが、かがんで立ち上がることを何度できるかわからなかった。彼女は机の上に5編ずつだけ置くことにした。順番を決めた束は左に、まだ確かめていないものは右に置いた。原稿を整理する方法まで、昔と同じである必要はなかった。6月29日だった。窓の外ではエアコンの室外機の音がずっと聞こえていた。紬は風が直接当たらないよう椅子の向きを変え、真帆から受け取った撮影データを開いた。紙に残った場面と画面に表示された場面を並べて確認できた。6月も診察は続いた。治療を受けた後に体調が悪くなって次の投薬を調整したこともあり、食事が難しかったり痛みが強くなったりして予定の外来より先に連絡した日もあった。紬は調子のいい日にできることをまとめて終わらせようとし、翌日ほとんどベッドから起きられなくなってからは、時間を短く分けた。今日は午前中に原稿の前半だけを見るつもりだった。真帆と会う午後までに全部終えなければならないとは、誰にも言っていない。立ち上がって休んでいる間は、作業一覧の印が増えなくてもよかった。最初の束を開くと、雨上がりのバス停が出てきた。女が濡れたベンチの一席を拭く最初のコマだった。紬はその絵を前にして、しばらくほかのページをめくらなかった。見慣れた場面の始まりと、自分の名前が同じ一覧に書かれていた。その後に入れる原稿は一度には決めなかった。カップを洗いながら窓のほうを見る女の話は少し前に、降りる場所を通り過ぎて花屋に入る話はその後に置いた。1人でパンを食べる女と服を選ぶ女が続くと、2編の間に別の季節の場面を挟んだ。女が同じ場所に立ち止まったままの人として読まれてほしくなかった。戻り、出かけ、何もしない日もあったのだから。紬は新しいセリフを書く代わりに、すでに描いた場面の間隔を見た。数年前に描いた紙には、当時の日付が余白に残っていた。最近1コマを変えた原稿もあった。紬は修正した日付と変えた部分を作業一覧に書き足した。元の絵と修正後の絵を同じファイルだと取り違えないよう、真帆が求めた印だった。病院へ行った日の場面は、その日以降に描いたものだった。春に書き留めたメモをもとに、後から構図を直した場面には、その時期も残した。紬は実際に経験したことと
5月7日の午後、紬は入院用バッグを横に立て、改めて診察を待った。朝に予定していた手続きは変わっていた。体の状態を診てもらい、必要な処置を受け、次の診察を決めるまで、バッグは椅子の横に置いたままだった。職員が予定を確認しながら尋ねた。「次はこの時間に来られますか?」「はい。来られます」紬は手帳に日付を書き、新しい予約を確認した。翌日また病院へ行き、その後の調整を経て5月12日に入院した。荷物を解くと、バッグからしわになった案内が出てきた。先週使うはずだった紙だった。彼女は捨てずに別の書類の下へ入れた。入院中の一日は、検査と診察の時間に合わせて流れた。その合間はベッドに横になって休んだ。直人からファイルの場所を尋ねられると、フォルダーの名前だけを答えた。いつ家に帰るのかという質問には、退院の日はまだわからないと言った。病院でパソコンを使えるかという問いには、答えずにおいた。医師は病気が胃の外まで広がっていると説明した。手術ですべてを取り除くのは難しい状態で、薬物治療を含めた可能な方法を検討しなければならなかった。紬は説明を聞きながら手帳を開き、ペンを置いた。今回はすべてを書こうとせず、先に耳を傾けた。「それでは、手術はしないんですか?」「今確認できている範囲では、手術で取り除く治療を優先するのは難しいです。病気の進行を抑える治療を検討しながら、食事の問題や痛みも併せて調整する必要があります」「何もできないわけではないですよね?」医師は、今できることと、体の状態に合わせて調整すべきことを分けて話した。紬は治療を受けたいと答えた。可能ならいつ始められるかも尋ねた。入院中は、食べられる量や不快な症状を伝えることも治療の一部だった。痛みが少ないと答えれば早く家に帰れる気がして、ついそう答えそうになる癖が残っていて、看護師に尋ねられるたびに紬は少し考えなければならなかった。いつ痛みが強かったか、食べた後に何がつらかったかを話すには時間がかかった。それでも、その言葉を書き留める人がいた。退院の会計をしながら、紬は自分の口座の残高を確認した。個人原稿の前払い金が入ってから初めて支払う入院費だった。金額を確認して支払い、残ったお金で次の診察と移動に使う費用を計算した。家に生活費がいつ入るのか直人に尋ねる必要が減った分、自分の予約を先に書き込めた。退院時に
5月7日の朝、旅行用バッグは玄関に置かれていた。紬は病院から持参するよう言われた書類を確認し、スマートフォンにタクシーの配車画面を表示した。まだ呼び出しボタンは押していなかった。後ろから直人が紙を1枚差し出したからだった。「これ、1行だけ見て」紬は時刻を確かめた。8時55分だった。「もう出ないと」「病院は10時だろ。読むのに1分もかからないよ」彼が持ってきたのは祝いの動画の台本だった。先週資料を送った後、追加撮影用にもう一度直してほしいと依頼が来たという。紬が書いていない文が途中に入っていた。古い原稿から人物のセリフを抜き出し、作家自身の経験であるかのようにつなげた部分だった。「これ、登場人物が言った言葉でしょう」「だからちょっと変だなって。俺が言ったことみたいに変えられない?」「削ればいいよ」「削ったら前の動画と合わないって言ってるだろ」直人は紙の向きを変え、紬のほうへさらに押し出した。紬はスマートフォンを食卓に置き、削る文に印をつけた。出発を遅らせずにできる最後のことだと思った。線を引くと直人は、その後に続ける言葉を尋ねた。「それはあなたがやって。考えてあるんでしょう」「今のまま渡せってこと?」紬はペンを置いた。直人は撮影担当者に電話をかけ、30分以内に送ると言った。紬にできるかどうかも聞かずに交わした約束だった。通話が終わるのを待って紬がバッグを持つと、彼は小さな部屋を指した。「原稿も一緒に開いて見ないと。場面の順番が変わったから」「今日はできないって言ったよ」「入院してもすぐに何かするわけじゃないだろ。受付が少し遅れるだけじゃないの?」「あなたが決めることじゃない」声が大きくなると、直人はリビングの窓のほうを見た。外で聞く人を意識するその動きのせいで、紬は思わず抑えようとした声を、そのままにした。「病院に行かないといけないって、何度言ったと思う? 日付も2回変えたの」「だから今日終わらせてから行けばいいだろ」直人は同じ説明を繰り返しながら、撮影担当者にまた電話をかけた。通話が終われば出かけられると思ったが、終わるたびに別の紙を差し出した。小さな部屋の机には前日に印刷した場面が残っていた。紬は夫がそれを口実にまた引き止めないよう、確認の終わった紙だけを手に取った。パソコンをつけて新しく直すつもりはなかった。リビング
紬は返してもらった封筒を机の引き出しの奥に入れた。真帆が保管する原稿の一覧には、その封筒は載っていなかった。一覧を折ってファイルに挟んでも、机の上にはまだたくさんの紙が残っていたので、すぐに必要な病院の案内からバッグに入れた。4月16日の診察には、予約の時刻より少し早く着いた。前の検査資料がきちんと届いているか確かめて座っていると、看護師が最近の食事の量を尋ねた。紬はちゃんと食べていると答えかけ、前日に食べたものを順に話した。口にしてみると、自分で思っていたより少なかった。診察室では検査結果と体の状態を一緒に見た。医師は病気がどこまで広がっているかさらに確認し、治療計画を決めるために入院して評価を受けるよう勧めた。食べる量が減ったことも併せて調べる必要があった。「何日くらいと考えればいいですか?」「検査やお体の状態によって変わることがあります。まず入院して必要な評価を行い、計画をご説明します」紬はカレンダーを開いた。医師が待ってくれる間に、画面に夫の予定が表示されたので、自分の予約を書いた小さな手帳を別に取り出した。4月23日の横には何も書かれていなかった。「その日にしてください」彼女は日付を書き留めた。病院では、それまでの間にも症状が強くなったら、予定日を待たずに連絡するよう言われた。診察室を出ると、真っ先に来週の原稿のことが浮かんだ。紬はメッセージ画面を開こうとした手を止め、入院の持ち物の案内から読んだ。足りないものを書き留め、薬局に寄ってから家に帰った。直人に日付を話したのは、その日の夕方だった。彼はモニターから目を離さず、どのくらいかかるのかと尋ねた。「まだわからないの。検査ももっと必要だし、治療の計画を決めるって」「じゃあ、検査にどれくらい時間がかかるかもわからないの?」「やってみてから決めるんだって」紬はバッグから案内を出し、食卓に置いた。直人は紙を読む代わりに、メッセージで届いた修正依頼を確認した。来週までに渡さなければならない原稿に問題が出たという。登場人物がけんかする理由がわかりにくいという意見だった。「その部分は俺も手を入れてみたんだけど、前後がまた合わなくて」「今回はあなたが整理しないと」直人は笑うように口元を動かした。「急に君が抜けたらどうするんだよ。休むにしても、渡すものは渡してから休まないと」入院して







